摂食症ともの会

みんなの 摂食症 体験談

小さな成功体験を積み重ねて見えてきたもの

まーとるさん

40代女性

#過食嘔吐

19歳で摂食症を発症。認められたい気持ちが強く、常に生産的でなければという強迫観念に駆り立てられるように、限界以上の力で走り続けてきた。現在、過食嘔吐への強い衝動はない。これからは、社会の期待に合わせるよりも、自分の健康や心地よさを大切に生きていきたい。

自分に向けていたのは
「死にたい…」という言葉

常に気を張っていた幼少期

自営業の両親はいつも忙しく、子どもに厳しく接することが多かった。三姉妹の長女だった私は、小学3年生から週5日、塾に通わされた。良い点を取らなかったり、勉強をしなかったりすると叱責され、殴られることもあった。小さい妹2人に矛先が向かないように、常に気を張っていた。幼いころから自分に向けていたのは「死にたい」「死ねばいいのに」という言葉だった。

「認められたい気持ち」が
外見に向かった

学校ではいじめにあっていた。今思うと大して太ってもいないのに、「デブ」「ブス」とからかわれ、見た目へのコンプレックスが芽生え始めたのもこの頃だった。

中学受験をして、中高一貫の女子校に通うようになった。女子校では、細い子がもてはやされる文化があり、見た目が派手できれいな子も多く、外見へのコンプレックスが強まっていった。物心ついた頃から認められたい気持ちが強かった私は、中学・高校で人に認められる一番の方法は、外見をよくすることだと思うようになった。

何者かにならなければと、
いつも限界以上の力で
走り続けていた

はじまりはダイエット

短大生の頃、大学編入試験の勉強を頑張っていた。勉強の時間を捻出するために、食事は手軽なもので済ませることが多くなり、自然と体重が落ちていった。周りの友人から「やせたね」とほめられ、嬉しい気持ちになり、当時流行っていた糖質制限ダイエットを始めるようになった。

大学に3年次編入。好きな英語を活かせる学生のボランティア団体に入り、頑張りが認められ、会長を任せられることになった。何十年も続いている歴史ある団体で、周囲は名だたる大学の学生ばかり。優秀な人に囲まれ、プレッシャーを感じる毎日だった。取得しなければいけない単位も多く、毎日、勉強にも追われていた。

片道2時間の通学や、就職氷河期での就職活動のストレスも相まって過食が始まった。高校生時代、スタイル抜群の友人が、「食べすぎたら吐けばいいんだよ」と言っていたことを思い出し、試してみたことがきっかけで、過食嘔吐をするようになった。お酒も飲むようになり、過食嘔吐が本格化した。

病院や親を頼ってみたものの…

症状が酷くなり「もう駄目だ」と思った21歳の時に、初めて心療内科を受診した。当時、読んだ本の中で、摂食症は幼少期の経験や親との関係に起因するとの考えや、「アダルトチルドレン」というキーワードを知った。親との関係修復が必要と考え、母に同行してもらうことにした。

診察では、幼少期の身体的・精神的な虐待のことや、かけられた数々の言葉を担当医に話した。すると母は、自分も大変だったと涙ながらに話し出した。自分をかばう母の姿を見て、「カウンセリングが必要なのは母だ」と冷めきった目で母を見る自分がいた。これでは意味がない、自力で何とかしようという気持ちが、この時強化されたように思う。薬も処方されたが、結局、通院は止めてしまった。

「何者か」にならないといけない

就職活動のプレッシャーと闘っていた22歳の時は、細切れの時間で過食嘔吐を繰り返していた。面接の前になると儀式のように食べては吐いた。この間ずっと、「自分とは違う何者かにならないといけない」「社会に認められるために、優秀でないといけない」と、とにかく無理をしていた。自分の限界が100だとしたら、150の力でいつも走っているような感じ。150の力で無理している自分を、これが私の「普通だ」と見せなければいけないと、必死だった。

過食嘔吐が精神安定剤に

総合職で会社に入ってからも、ずっと150の力で走ってきた。経営陣と近いポジションで学ばなければいけないことも多く、常にプレッシャーを感じていた。4年間の間に、3回の転勤と3回の部署異動を経験し、出張も多く、落ち着かない毎日。最初は体重コントロールの手段だった過食嘔吐が、ストレス発散の手段となり、精神安定剤のように私を支えていた。毎晩のように食べては吐き、土日は1日に何度も過食嘔吐する日もあった。お金もたくさん使ってしまい、罪悪感もずっとあった。過食嘔吐をする自分が嫌いで、過食嘔吐を隠していることも嫌だった。

夢だった外資系企業での仕事だけど

26歳で結婚して息子を妊娠した。夫に隠し続けていた過食嘔吐を、初めて涙ながらに告白した。母親になるこのタイミングで「絶対に治さないといけない」と思い、通院を始めた。しかし、担当医は親身になってはくれず、薬を処方するだけの診察に疑問を持った。病院に行っても治らない、何も変わらない。どんどんと諦める方向へ向かっていった。

産後、職場復帰してしばらくすると、外資系の会社に転職した。大学生の頃からの夢だったので本当に嬉しかったが、かなりハードな仕事だった。本社との時差もあり、仕事を家に持ち帰り夜中まで働くこともあった。

子育てと仕事…キャリアの喪失

この頃、息子の登園拒否が始まった。保育園への付き添いが必要になったことから、30歳で会社を退職することになった。夫のサポートは得られず、息子が落ち着くまで数カ月、無我夢中でサポートした。「僕、もう保育園に行けるよ」と再び息子が通えるようになった時は、心底ホッとした。だけど、そんな私に残ったのは、「私には何もなくなってしまった」という思いだけだった。

夢だった外資系での仕事。何のために大学に行き、何のために頑張ってきたのか。キャリアがなくなり、人からも認められない。悔しい。報われない。男女不平等な社会にも、非協力的な夫にもムカついた。夢がガラガラと崩れ落ち、自分にはもう何もない、そんな思いに駆られた。

過食嘔吐と飲酒が心のよりどころに

うつ病を発症し、心療内科に通うようになった。夫は仕事、息子は保育園。家に一人でいる時間は飲酒をするようになり、量もどんどんと増えていった。飲酒がトリガーになり、過食嘔吐にもさらに苦しめられた。

うつ病は1年ほどで寛解したものの、夫の単身赴任で息子と2人の生活になったり、単身赴任先に引っ越したりと変化の多い生活が続いた。息子の反抗期も始まる中で、過食嘔吐と飲酒が気持ちのよりどころになっていた。この間、フィットネスクラブ、お弁当屋さん、本屋さん、税理士事務所など、色々なところで働いた。行政書士事務所と市の国際交流協会のダブルワークをしていたこともある。週6で働くことで、つらいことや罪悪感を忘れようとしていたのかもしれない。

自分の限界を感じた瞬間
「このままじゃ死んじゃう、助けて」

自助グループとつながる

夫の転勤で福岡に来て5年。高校1年生になった息子はあと数年で独り立ちする。最後に彼が見る私がまともな人間であってほしいと思っていたところ、新聞で自助グループの存在を知った。それから月に1回、オンライントークに参加するようになった。

病気を克服された方、渦中にいる方、同じ経験を持つ方々の話から学ぶことが多く、自身の状況を飾らず話すことで、自分の状況を客観的に見つめるきっかけとなった。この病気は経験した人にしか分からない部分が多いからこそ、何も言わなくても分かってもらえる、安全な場所があるのはありがたかった。

コントロールに疲れ果てて

それから数か月後、過食嘔吐の引き金になっていたアルコールを絶った。当時の日記を振り返ると、「このままじゃ死んじゃう、助けて」と書いてある。

自分をコントロールすることに完全に疲れ果てていた。自分の限界をはっきりと感じた瞬間。コントロールを手放し、すべてを神様に委ねようと決意した。まだ揺らぎはあったけれど、この日から自分の中で、何かが確かに変わり始めた。

小さな成功体験の積み重ね

中途半端さも「よし」

それ以来、症状はなくなりお酒も飲まなくなった。2回だけ過食嘔吐してしまった日があったが、失敗してもまだ戻れる、大丈夫という気持ちが自信になっている。

症状の渦中にいた頃は、「病気」と「回復」には境界線があり、回復すれば意識と体がリセットされ、普通の食べ方ができるようになると思っていた。実際は、コーヒーを飲みすぎたり、あめやガムや甘いものを食べすぎたり、「ちょっと変な食べ方」は残っている。

以前は、自分が許せる量より1口でも多く食べすぎると、それがトリガーになって過食してしまうこともあったが、今はその1口を許容できるようになった。食べた後、すぐに出さないと怖いという恐怖感に駆り立てられるのではなく、少し待ってみて、次の日にちゃんと消化されたときに、「大丈夫」と思えるようになった。当初イメージしていたような、きれいな回復は無理だけれど、中途半端さも「よし」とできる心地よさを感じながら、小さな成功体験を積み重ねている。

認められることより「ただただ生きる」

症状がなくなった今、どれだけ自分にムチを打ってきたかが分かるようになった。社会で良いとされるものを得るために、カラカラとハムスターみたいに車輪の上を走らされてきたことに気づき、「認められること」自体がばからしくなった。

与えられた寿命を全うしたいと今は思う。健康に、心地よく、ストレスなく、よく寝て、よく食べる。当たり前の生活ができるように、あとの人生は楽しんでいきたい。認められることより、ただただ生きたいと思う。

あの時の私へ
「生きてくれていて本当にありがとう」

病気になり私が一番つらかったのは、親として子どもに悪い例を見せてしまっているという罪悪感だ。夫が単身赴任で、二人で暮らしていた時期もあるから、息子は間近で私の過食嘔吐を見てきただろうと思う。息子の信用に値する人間でいたい。息子の存在は、いつも回復への原動力になっている。

何かに追われるようにずっと走り続けてきた。けれど、これからは自分のペースを探してあげながらゆっくりと歩いていきたいと思っている。

あの時の私へ。「生きてくれていて本当にありがとう」。

 

※掲載している方は全て仮名です。

※ここでご紹介している内容は、あくまでも個人の体験談です。症状や感じ方、回復過程には個人差があり、必ずしも全ての方にあてはまるものではないことに、ご留意ください。また、医療的・専門的な助言を代替するものではありませんので、必要に応じて医療機関や専門機関へご相談ください。

※診断名の変遷をふまえ、体験談中の表記はすべて「摂食症」に統一しています。過去に「摂食障害」と診断を受けられた方の体験についても、現在の診断名に基づき「摂食症」と記載しています。

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