摂食症は生きのびる術でもあった

おむすびさん
60代女性
#拒食 #過食嘔吐
摂食症を発症したのは45年前。この病気が世間にまだよく知られていない時代だ。拒食症に始まり、過食嘔吐、アルコール依存症、リストカット…。ドン底まで落ちた私はようやく、失った時間にもそれなりの意味があるのかもしれないと、これまでの人生を捉えなおしている。
吃音がひどかった幼少期
「どうせ分かってもらえない」
子ども時代を振り返ってまず浮かぶのは、吃音がひどく、言いたいことが言えない幼少期。言葉によっては発音することができず、電話口では聞き取ってもらえないことも多かった。それが原因で、人から笑われ、ばかにされることもあった。「どうせ私のことなんか、分かってくれない」。刷り込まれた感覚がずっと心の奥底にあったのだと思う。
食べ物と勉強だけの青春
ダイエットの動機は、見返したい気持ち
拒食症を発症したのは高校2年生。1980年だ。当時、摂食症は世間にまだよく知られていなかった。仲が良かった同じ苗字の友人がやせ型で、友人の方は「やせている〇〇さん」、私のことは「太っている〇〇さん」と呼ばれ、クラスでからかわれた。悔しかった私は、見返したい気持ちからダイエットを始めた。インターネットもない時代。学校の図書室で食品成分表の本を借り、自己流で必死に勉強するようになった。
炭水化物や油物を徹底的に排除し、縄跳び、階段昇降などをして、とにかく動き回った結果、半年でかなりやせた。身に染みる寒さや、骨が当たる痛みを勉強に没頭することで紛らわせていた。やせ始めたら体重を自分でコントロールできることが、どんどん楽しくなっていった。
病院に行ったものの
病院に行ったのは、入浴する際に母が私の体を見たことがきっかけだった。急にやせ始め、食事に対してヒステリックになっていた私を、両親も不信に思っていたうえ、あばら骨が浮き出るほどやせ細った私の体に愕然としたようだった。「あなた、生理も来ていないでしょ…」。そう言われ、母に婦人科に連れて行かれた。当時は摂食症に対する理解が十分ではなく、適切な治療を受けることは難しかった。医師からの質問に私ではなく母が答えていたことで、看護師から「自分のことなのになぜ、自分で答えないのか」とこっぴどく叱られたことを覚えている。内心とてもショックだったが、泣きごとはいわなかった。
理解してもらえない…
このころ母が、私のことを友達の母親に「ガリガリになっちゃって。物干し竿に洗濯物が引っかかっているようなものよ」と話すのを聞いた。その場では平然とていたが、内心では「お母さんは分かってくれない。私を守ってくれない」と感じ、家に帰ってひとりで大泣きした記憶がある。父にも「女の子は少しふくよかな方がいい。将来子どもを産むんだから、そんな体では…」と言われたこともあった。親には拒食のつらさを理解してもらえず、切り捨てられたように感じた。
当時、父は単身赴任をしており、家は母と兄、私の3人で母子家庭のようだった。私は次第に、理解してもらえないつらさや孤独を抱え込み、勉強に自分の居場所を置いていった。高校時代、友人はいなかった。青春時代の楽しい思い出もなく、食べ物と勉強が全てだった。
受験、進学。症状は治まっていった
大学では心理学を学びたかったが、「心理学なんて自分で本を読めばいい。女の子は仕事に結び付けるようなものでないと…」と親に言われ、栄養士を目指すことに。「自分みたいな人を救えるかもしれない」という思いもあって、大学で本格的に栄養学を学ぶことにした。
受験を終え、進学先が決まった頃には、自然と極端な拒食症は治まっていった。家族が設けてくれた合格祝いの席で、今まで心配や迷惑をかけてごめんなさいと、謝罪の旨を伝えたことを覚えている。今思えば、いい子ちゃんをやっていたなと思う。
苛立ちや不満、
いろんな思いも同時に吐いていた
結婚、出産、再発
結婚し、出産。再発したのは、二人目の出産を終えた30代。教科書通りには進まない初めての育児につまずきながら、何とか二人目も出産したけれど、上の子が癇癪を起こすなど余裕のない毎日が続いた。ワンオペでの育児をする中、自信はどんどんなくなっていき、自分に対しての否定的な思いが募るようになった。
常に漠然とした不安感があったように思う。そんな中で、再びダイエットを始めた。食べないダイエットのあとは過食に移行していった。
子どもに食事を作ったり、お菓子を買ったりするなど、子育て中は常に、食べ物が身近にある環境。とにかく何かを食べた。そして吐く行為を覚え、過食嘔吐が泥沼化した。
食にがんじがらめに
心配した友人から、ある食事療法をすすめられ、始めることに。食事療法の担当者にこれまでのことを涙ながらに話すと、親身に話を聞いてくれた。「それは大変でしたね、よく頑張ってこられましたね」と声をかけてもらい、救われた気持ちになった。1日3食を食べてもやせ、体調も良くなったことから、その食事療法にはまっていった。次第に、その食事療法で認められるもの以外は、食べてはいけないものになった。市販品も食べられず、外食もできなくなり、食にがんじがらめになった。
追い詰められた気持ちになって
次第に「アルコールを飲めば食べなくもいい。気持ちが楽になる」とアルコールにも依存していった。自己否定感も強くなり、リストカットもするようになった。
血を見るとすっきりし、自分を傷つけることで安心した。夫にリストカットがバレた時に摂食症のことも話したが、「そのことはよくわからない」と返された。「夫は私の気持ちを理解しようとしてくれない」そんな思いだけが強く残った。精神科にも通った。そこには鉄格子のある閉鎖病棟があった。「私はこんなところに来るようになったんだ…」と、追い詰められた気持ちになった。
落ちるところまで落ちた
食べては「バカ」「くそ野郎」と汚い言葉を放ちながら、自宅のトイレの便器に顔を突っ込んで、食べて吐くことを繰り返す。「もう落ちるところまで落ちた」と思うと同時に、「これがないと私はやっていけないんだ」と考えていた。私にとって「吐く」という行為は、一つは食べたものを消化吸収したくないから、もう一つは溜まっていた苛立ちや不満、いろんな思いを吐きだすという意味があったように思う。
回復の特効薬はないけれど…
ドン底まで落ちて見えてきた世界
私を満たすものは?
夫との関係もうまくいかなくなり、私は自分をカラカラに乾いた砂漠のようだと感じていた。そんな時に知り合った人とのあたたかいふれあい。それは、その砂漠に一気に水が広がったような感覚を、私にもたらした。その人との時間は、当時の私が自分でいるためにも、回復のためにも、必要だったように思う。
バレエというもう一つの世界
救いを求めて自助グループとのつながりを持ったり、体験談を読んだりしたが、正直、どれも助けにはならなかった。
友人の子どもバレエの発表会を見に行ったとき、私も子どもの頃、バレエを習いたかったことをふと思い出した。友人の後押しもあり、バレエを始めるようになった。私にバレエというひとつの世界ができた。鏡に映っている自分の姿を見て、やせすぎだということにも気づいた。
自然に触れながら
子どもを連れての登山も始めた。「花は喋らないけれど、こんなにも人の心を穏やかにしてくれるのか」と涙が出たのはヤマユリを見たとき。自然に触れながら、黙々と歩く…。頂上で、今まで禁じてきたインスタントラーメンを食べた時、心の底から「おいしい」と思った。「食べても平気」「死んでもいない」。そうやって禁じていた食べ物も一つ一つクリアして自信をつけていったように思う。
過食嘔吐がつらい気持ちを代弁していた
「もう私はドン底まで落ちた。過食嘔吐がつらい気持ちを代弁していたんだ」と気付いたことが回復につながったように思う。そして「病気があったから、今生きているんだ」とも思うようになった。
子育て以外に楽しい時間を持てたことも大きかったのかもしれない。回復に特効薬はないけれど、少しずつ外の世界に目を向けることができるようになれたこと。自分一人の世界から抜け出し、自分を客観的に見ようと努力してみたこと。そして、そんな私のそばにはいつも誰かがいてくれた。人と接することは大切なんだと思う。
摂食症は自分の弱さを見せてくれ、
支えてくれたもの
最近は事務職の仕事をしながら月1回、子ども食堂のボランティアを始めた。かつては自分を縛り付けるものだった食に関する知識は、今、自分や周りの人の健康を保つために活かされている。食べることはすごく大切なこと。食に関する自分の経験を、未来を担う子どもたちのために活かせたらいいなと思っている。
「過食嘔吐がつらい。私なんていない方がいい」とうずくまっていた時期。今考えれば、実はその渦の中にいることで、なんとか自分を保っていたようにも思う。私にとって摂食症は、時間泥棒だったかもしれないけれど、自分を見つめ自分の人生を考え、一時的には自分を支えてくれるものでもあったのかもしれない。
※掲載している方は全て仮名です。
※ここでご紹介している内容は、あくまでも個人の体験談です。症状や感じ方、回復過程には個人差があり、必ずしも全ての方にあてはまるものではないことに、ご留意ください。また、医療的・専門的な助言を代替するものではありませんので、必要に応じて医療機関や専門機関へご相談ください。
※診断名の変遷をふまえ、体験談中の表記はすべて「摂食症」に統一しています。過去に「摂食障害」と診断を受けられた方の体験についても、現在の診断名に基づき「摂食症」と記載しています。
